「時代に取り残された店には、なぜあたたかさを感じるのか?」

味覚とエッセイ

最近、ドライブスルーで商品を受け取る時、ふと違和感を覚える。
窓を開け、無機質な機械的なやりとりの後、サッと手渡される。何も言わずに、ただ渡されるその瞬間──。

本来、店という場所はどんなものだっただろうか。買い物をするために訪れるだけでなく、そこには必ず「人と人とのつながり」があったはずだ。
そして、それが今の時代において、どこか失われつつある気がしてならない。


商売の原点は利益の追求にある。それは当然のことだ。
商品を仕入れ、適切な価格で売る。これが商売という営みの基本であり、利益を生まなければ続かない。
しかし、利益をただ追い求めるだけでは、人々の心は遠く離れてしまう。

商売が続くためには、何かしらの「心」が必要だ。
心とは、ただの愛想や表面的なサービスではなく、相手の立場に立ち、その時々に最も必要なものを先回りして提供することだと思う。


例えば、四国八十八カ所の巡礼。
お遍路さんたちが道中に立ち寄るお寺や民家では、無償でお接待を受けることがよくある。
食べ物や飲み物を提供し、旅の疲れを癒やすこと。それが「お接待」という、古くからの習わしだ。

お金を求めず、無償で人をもてなすその精神に、何とも言えぬ温かさを感じる。
そして、巡礼の人々はこの優しさを心に刻み、「またここに来たい」と思う。
こうした温かさこそが、人々を引き寄せ、心に残る記憶となるのだ。


もちろん、奉仕の精神を持つことは、簡単なことではない。
人はどうしても自分中心に物事を考えてしまうからだ。
しかし、逆に言えば、他者に手を差し伸べることで自分が得るものも大きい。

私自身、若い頃に巡礼をしていた際、ふと立ち寄った中華料理店で、店主から
「お遍路さんですか?ご苦労さまです」
と声をかけられ、春巻きをサービスで提供されたことがある。

その心づかいが、今でも鮮明に記憶に残っている。
あの春巻きは、単なる料理ではなかった。
それは、温かい心から生まれたものだったのだ。


おわりに

効率と利益が優先される時代だからこそ、忘れがちな「心ある店」の存在。
時代に取り残されたように見えるその店の奥には、**誰かがそっと灯し続ける“ぬくもり”**があるのかもしれない。


コメント

タイトルとURLをコピーしました