「最後の晩餐とは」

味覚とエッセイ

── 生き方と食べ方の選択について考える


年齢を重ねると、食が哲学になる

ある程度の年齢に達すると、「これからどんなものを食べていくか」を真剣に考えるようになります。

身体を労り、からだに優しいものを選ぶのか。
それとも、舌が記憶する“未知の味覚”に挑戦して、自分の世界を広げていくのか。

どちらも魅力があり、そしてどちらにも言い分があります。
実際、私自身もその選択の間で揺れている日々があります。


母と叔父、2人の晩年に学んだこと

この迷いの背景には、亡くなった母と叔父、2人の人生が影響しています。

叔父は商売でまとまった財産を築き、早めにリタイア。
趣味を楽しみながら、少し贅沢な食生活を送っていました。
肉や魚も好んでいて、美食家のように見えていました。

一方の母は、粗食を基本とした質素な生活を貫いた人。
特にこれといった贅沢をすることもなく、毎日同じような暮らしを送っていました。

どちらも、自分で選んだ生き方でした。
その姿勢に、私は尊敬すら覚えています。


「最後の晩餐」に現れる“本音”

ただ、一つだけ気になっていることがあります。

叔父は晩年、大病を患ってからは急に素朴な郷土料理を好むようになりました。
「本当は田舎蕎麦が一番好きだったんだ」と、最期にポツリと漏らしていたのです。

母はというと、「あれを食べておくべきだった」と、
亡くなる少し前から何度もそう口にするようになりました。

人は、最後の最後に、**「本当に食べたかったもの」**を思い出すのかもしれません。


食の欲望に“正解”はあるのか?

こうした二人の晩年を思い出すと、食について考えるたびに、
「結局、どんな食生活が正しかったのだろうか?」と迷うのです。

身体をいたわる食事が正解なのか。
心の記憶に残る、豊かな味を追い求めるのが正解なのか。

それとも、その人がその時に「食べたい」と思ったものこそが、最も正直な選択なのか。


最後の晩餐とは、「生き方の縮図」

「最後の晩餐」とは、
ただの一皿ではなく、その人の生き方が凝縮された一皿なのかもしれません。

贅沢か、質素か。
派手か、素朴か。
記憶か、栄養か。

何を選ぶかによって、自分自身がどんな人生を生きてきたのかが浮かび上がる。
そう思うと、「今日、何を食べるか」が、とても重みを持って感じられるのです。


🧭あなたの「最後の晩餐」は何ですか?

最後に、もしよければ、あなたにも考えてみてほしいのです。

「自分が人生の終わりに、もう一度だけ食べたい料理は何か?」

その答えが、あなたの“生き方”を静かに物語ってくれるかもしれません。


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