「鯉たちの行進とドンペリの酸味」

味覚とエッセイ

「鯉たちの行進とドンペリの酸味」

姪の結婚式に出席した。
職場結婚ということもあってか、会場には企業関係の方々が大勢を占めていた。格式高いホテル、完璧に統制された進行、出席者の装い、そして常務の長々とした祝辞。

どれもこれも、私には“社会”という名の檻の中で演じられる演劇のように思えた。
頭の中では思わず、「ああ、これは会社の式典そのものだ」と苦笑いを浮かべるしかなかった。

祝辞は、まるで学生時代の校長先生の挨拶のように長く、形式のうえでの正しさに満ちていた。
しかし、祝辞の長さと、祝福の深さは、必ずしも比例しないと私は思っている。

目の前で繰り広げられるその光景は、池の中の鯉たちのようだった。
誰かが水面に餌をまけば、全員が一斉に同じ方向に向かって動き出す。
それは秩序といえば聞こえはいいが、私には不気味さと滑稽さが交互に襲ってきた。

それでも、料理は本物だった。
特に、乾杯で振る舞われたドンペリ。
初めて口にしたが、酸味が立ちすぎた白ワインに微かな炭酸が乗っただけの液体でしかなかった。
これが高級酒なのか……と、つい庶民的な感想が頭をよぎる。
その瞬間、ホストやキャバ嬢が「ドンペリいっときましょう!」と笑顔で煽る様が頭に浮かび、「あれは詐欺に近いな」と内心で毒づいてしまった。

思えば、私には昔から“空気に溶け込む”という能力が欠けていたのかもしれない。
それはこの日、再確認するような出来事もあった。

近くの席にいた義理妹の兄——つまり私にとっては少々複雑な縁者。
彼とは若い頃、一度だけ夜の町に出かけたことがある。
どちらも酒好きで、どこか似たような空気を持っていた。
そして今、失踪という道を選び、家庭を離れた彼と再会したことで、不思議と懐かしさが芽生えた。

私もまた、社会のどこかからはみ出したまま生きている。
そんな二人が再び顔を合わせたことは、運命の皮肉というよりも、“世界の隅っこ同士がふと重なった”、そんな瞬間だったのかもしれない。

たぶん、誰の記憶にも残らないような結婚式の一場面だろう。
しかし、私にとっては忘れられない何かがそこにあった。
祝辞も、ドンペリも、鯉たちの動きも、そしてあの男との再会も。
すべてが「社会の仕組みと自分の距離」を測るための目盛りになっていた。

式が終わり、帰りの車中でふと思う。
自分にとっての祝福とは、誰かの言葉でも、高級な料理でもなく、
**「違和感を抱いても、そこに静かに佇める勇気」**だったのかもしれない。


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