猫になる勇気、旅人の恐れ

味覚とエッセイ

——額のない動物と、考えすぎる人間について

ある夜、キーボードの電池が切れた。思考の流れが遮られたような妙な感覚に襲われながら、私はスマホを手に取ってAmazonプライムを開いた。

ベン・アフレック主演の映画『コンサルタント2』が配信されていた。無口で、自閉症を持ちながらも卓越したスキルで任務をこなす男。その姿を見ながら、どこか自分と重なるような気がしていた。

変わり者。流れ者。常識からは少し外れた生き方。それでも自分のリズムと、自分の正しさで生きている者たち。

猫の毛とAGA治療の妄想

画面を見つめながら、ふと頭に浮かんだのは猫のことだった。この時期、換毛の季節で部屋中に毛が舞う。その柔らかくて軽い毛を見ながら、私はこんな妄想をしていた。

「この猫の毛、うまく使えれば人間のAGA治療に応用できないだろうか?」

しかしすぐに、ある根本的な事実に気づく。猫には“額”がないのだ。あれは鼻筋から額まで、すべて産毛に近い毛で覆われている。つまり「猫の額」という言葉は、実体のない比喩にすぎない。ないものをあたかもあるように語る――そこに、人間の滑稽さが垣間見える。

猫の柔軟性と人間の躊躇

猫は変化に対して、柔軟に順応する存在だ。季節が変われば毛が抜け、環境が変われば居場所を変え、人間に捨てられても自分の生きる術を見つける。

対して人間はどうだろう。頭の中では様々に想像するくせに、いざ変わるとなると途端に物怖じしてしまう。

昔話の旅人もまた、人間的だった

思い出すのは昔話。阿蘇山の麓にある猫岳で、旅人が化け猫の修行場に迷い込む話だ。屋敷に泊めてもらおうとした旅人は、女の姿をした猫から「ここで湯に浸かると、猫になってしまう」と忠告される。

彼は本能的に恐れを感じ、逃げ出す。でも逃げ切れたわけではなかった。湯のしぶきを浴びた耳と脛には、すでに猫の毛が生えていたという。

私たちは何を恐れているのか?

本当に恐れているのは、「猫になること」ではない。

“自分が変わってしまう”という事実そのものなのだ。

日常の中で抜け落ちていく毛、積もる思考の埃、行動できないまま夜を越える自分。けれど、猫のように変わることを受け入れられたら、もっと自然に、もっと軽やかに生きられるのかもしれない。

額のない生き物のように。

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