――豚が現れるとき、人生は崩れる。
私にとって「ミタス」とは、単なる調味料ではない。
それはもう、脳内物質を掻き立てる合法麻薬に近い存在である。
甘味でも塩味でもない。五感の隙間を縫って忍び込む、あのスープの「何か」は、
人生の節々に現れては、私を甘やかし、突き落とし、もう一度立たせてきた。

■打ちのめされるとき、決まって豚が現れる
人間には「自分を破壊したい衝動」がある。
私にとって、それが現れるのは決まって、
生活が破綻しかけたときだった。
仕事がうまくいかない。
人間関係がもつれる。
何もかもが意味を失っていく。
そんなとき、豚太郎の暖簾をくぐる。
そして、とんこつにミタスがたっぷり溶けたスープを一口。
その瞬間、頭の奥にピキンと電流が走る。
悪いものを食べてる、という背徳感とともに、妙な安堵が身体に流れていく。
まさに、天使と悪魔の両面を持った麻薬だ。

■唾と感謝を一緒に注ぐ
私は何度もこのラーメンに救われ、そして何度も打ちのめされた。
食後の罪悪感。膨満感。財布の軽さ。
それでも、また足を運んでしまう。
この豚は、私の捻くれた根性を育ててくれた恩人であり、悪友でもある。
だから、感謝とともに唾を吐きかけたい。
「ありがとう。でも二度と来るな」と言いたい夜が、何度あったことか。
■“豚”に宿るローカル文化の矛盾
ところで、愛媛のラーメン文化は独特だ。
高知発祥の「豚太郎」が、愛媛で独自の進化を遂げたというのも皮肉な話。
東京から来た夏目漱石が、松山で「この地を見下していた」逸話がある。
彼のように、私もたまにこの土地の無邪気さに嫌気が差すことがある。
でも、そういう場所でしか生まれない味――
完璧じゃない、いびつで、ちょっと身体に悪いものが、
どうしても人間の“救い”になることがあるのだ。
■ミタスのスープをすすりながら、今日も私は踊る
健康に良いものだけで、生きていける人間は幸せだ。
でも私は違う。
身体に悪いラーメンを、身体の一部のように受け入れてきた。
それは後悔なのか、愛着なのか。
わからないまま、私は今日もスープをすする。
脳の奥に灯る、小さな麻薬の火を確認するために。
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