📝「排泄としての哲学、野良牛としての私」―常識に抗う、静かな生存戦略―

味覚とエッセイ

日本という社会で生きていると、
「こうあってほしい姿」を他人から勝手に期待されることが多すぎる。

たとえば、「常識」。
それはあくまでも“他人が思う”正常値であり、私の取扱説明書には載っていない。

私は私なりに存在しているだけなのに、
誰かの手によって“説明可能な枠”に押し込められそうになると、
とたんに胸の奥で拒絶反応が起きる。

「それは私じゃない」と叫びたいわけでもない。
ただ、“私は”まだ名前のつかない状態で生きていたいだけなのだ。


私はよく「擬態」を使う。
目立たないように、波風を立てずに、スッとその場をやり過ごす。
本気で怒るより、流してしまったほうが楽なときもあるから。
それに――、
擬態とは、自己消失ではなく、楽天的な自衛手段だと思っている。


旅に出たいと思ったことがある。特にインドに。
あの“ごった煮”のような街並みと、
野良犬ではなく野良牛がゆったりと歩く風景。
整わないことが前提で、誰もが「なんかいる」だけでよしとしている。

私は、あの空気に自分の「居場所」のヒントを感じたのかもしれない。


最近ようやく、哲学は排泄のようなものだと思うようになった。

したくないときもある。でも、ためすぎると具合が悪くなる。
無理に思考をひねり出すのはしんどいが、
出してみると「あれ、思ったよりスッキリしたかも」ということもある。

これはもう精神の透析
頭痛の種でもあり、やらなければ気が済まない自分の性分でもある。


私は、まだ自分の頭の構造をすべて理解できているわけじゃない。
でも、もしかしたら似たような違和感を持つ誰かと、
理解し合わずに、語り合ってみたいとは思っている。

それは慰めではなく、
「そういう回路もあるんだな」と、互いの中に風が通るような瞬間かもしれない。


ここまで読んでくれたあなたへ。

答えは書いていません。
私自身がまだ手に入れていないからです。

ただ一つ、こうは言えるかもしれません。

――私は考えた。あなたは?


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