日本という社会で生きていると、
「こうあってほしい姿」を他人から勝手に期待されることが多すぎる。
たとえば、「常識」。
それはあくまでも“他人が思う”正常値であり、私の取扱説明書には載っていない。
私は私なりに存在しているだけなのに、
誰かの手によって“説明可能な枠”に押し込められそうになると、
とたんに胸の奥で拒絶反応が起きる。
「それは私じゃない」と叫びたいわけでもない。
ただ、“私は”まだ名前のつかない状態で生きていたいだけなのだ。

私はよく「擬態」を使う。
目立たないように、波風を立てずに、スッとその場をやり過ごす。
本気で怒るより、流してしまったほうが楽なときもあるから。
それに――、
擬態とは、自己消失ではなく、楽天的な自衛手段だと思っている。

旅に出たいと思ったことがある。特にインドに。
あの“ごった煮”のような街並みと、
野良犬ではなく野良牛がゆったりと歩く風景。
整わないことが前提で、誰もが「なんかいる」だけでよしとしている。
私は、あの空気に自分の「居場所」のヒントを感じたのかもしれない。
最近ようやく、哲学は排泄のようなものだと思うようになった。
したくないときもある。でも、ためすぎると具合が悪くなる。
無理に思考をひねり出すのはしんどいが、
出してみると「あれ、思ったよりスッキリしたかも」ということもある。
これはもう精神の透析。
頭痛の種でもあり、やらなければ気が済まない自分の性分でもある。
私は、まだ自分の頭の構造をすべて理解できているわけじゃない。
でも、もしかしたら似たような違和感を持つ誰かと、
理解し合わずに、語り合ってみたいとは思っている。
それは慰めではなく、
「そういう回路もあるんだな」と、互いの中に風が通るような瞬間かもしれない。
ここまで読んでくれたあなたへ。
答えは書いていません。
私自身がまだ手に入れていないからです。
ただ一つ、こうは言えるかもしれません。
――私は考えた。あなたは?
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